北原羽左衛門

乾家の恩人・北原羽左衛門と都築久太夫

伝承によれば、乾加兵衛正信の父・板垣信憲が本郷八郎左衛門によって殺害された時に、北原羽左衛門と都築久太夫という従者に連れられて逃れ養育されて成長。平素武芸鍛錬を怠らず武功を立て、その後、天正18年(1590)10月7日、遠江国掛川で山内対馬守一豊に仕え、榛原郡勝間田麻生村に采地を賜い、最終的に山内家とともに土佐にやって来たと伝えられています。

かつては、高知の板垣山の乾家(板垣家)歴代墓所にお参りする際、この「北原羽左衛門」家のお墓にもお線香を一本灯してお参りする習わしがありました。

北原羽左衛門家の墓

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正信を助けた家臣の「北原羽左衛門」家は、その後の正信の土佐入国にも従い、代々乾家に仕えました。「北原羽左衛門」家自体も何代も世襲名を名乗り、代を重ねてますが、残念ながら古い墓石は風雨に晒されて破損し、また竹藪に埋もれたままになっています。(都築久太夫に関しては墓所の消息不明です)

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(※北原家の家紋。かなり珍しいものではないでしょうか。『波に二ツ扇』とでも言うのでしょうか?2012年撮影)
「北原羽左衛門」家の子孫は途絶えてしまったのか、高知から他所へ転居されてしまったのか、子孫がおられてもこの墓の存在を忘れてしまっている可能性もあります。

ただ、この方がおられなかったら、江戸時代の乾家も存在しなかったかもしれませんし、幕末の歴史もそれなりに変わってしまっていたのではないでしょうか。

板垣退助先生顕彰会では、板垣家(乾家)の恩人である、北原羽左衛門の墓の保存に努めようとしています。
板垣の書生であった、栗原亮一、宇田友猪両著による『板垣退助君傳 第1巻』にも北原羽左衛門、都築久太夫の事が書かれていますが、全体として事実関係の記載に誤りが多く訂正されないまま、今に至っています。板垣退助薨去百回忌を前に、北原羽左衛門家の子孫の方、ゆかりの方、また都築久太夫や、その他板垣信方の子孫に関する消息・情報を集める作業を行っております。

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●板垣信方の子孫に関する情報
●板垣信憲の子孫に関する情報
●北原羽左衛門家、北原家(※家紋「波に二ツ扇?」。山梨、長野方面出身?)の土佐入国以前の情報
●北原羽左衛門家の子孫に関する情報
●都築久太夫に関する情報
●南禅寺に預けられたと言われる板垣正信の弟・板垣正寅に関する情報
●その他、板垣正信幼少期、山内家に仕える以前に関する情報など

板垣退助先生顕彰会まで情報をお寄せ下さい。
↓連絡先:こちらまでご連絡下さい↓↓
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  • 最終更新:2017-03-31 15:43:04

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