憲政樹立運動

明治7年(1874) 38歳

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退助は、征韓論に敗れた時、日本は近代国家としての仕組みが未だ成り立っていないことを悟り、五箇条の御誓文の第一条「万機公論に決すべし」の大御心に基づき、朝廷ではなく国民輿論の力によって政治を行う「議院内閣」を日本に作らなければならないと考えた。
そのため退助は、真に国を愛する人々を集め、1月12日、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平、由利公正、小室信夫、古沢滋、岡本健三郎等と共に「愛国公党」を組織し、1月17日、「民撰議院設立の建白書」を左院に提出した。この「愛国公党」がわが国最初の政党組織である。

しかし折り悪く、「愛国公党」結成の2日後にあたる、1月14日夜、高知県士族・武市熊吉ら9人が仮皇居より帰宅途中の岩倉具視卿を赤坂喰違において襲撃するという「赤坂喰違事件」が起きる。岩倉卿は負傷しながら馬車から逃げ堀に転落。襲撃者らは岩倉卿が死んだと思い立ち去ったので、一命を取り留めた。武市らが捕縛されたのが、「民撰議院設立の建白書」を左院に提出したのと同じ、1月17日であった。武市らはもと軍人で、「明治六年の政変」に激憤して辞職した者ばかりであった為、退助との関係を疑われ「当局の嫌疑は多く土佐政客の上に懸り、板垣等の運動は、一に政権を奪はんとするものゝやうに誤想せられ、かの建議は全く顧みられなかった」(『大隈侯八十五年史 I』539頁)という状況で「(武市熊吉らの)此一挙は図らずも在朝者の誤解を買ひ、民撰議院の建白に向て苦痛なる打撃を加へ、為に同志をして惜しに堪へざらしめたり」(『自由党史 上』93頁)となった。

朝廷において、これらが直ちに実現できるものではなかった為、愛国公党の党員は、まずは各々の地元に帰って地方の地盤を堅めることから始め、必ず議院内閣制度を作り日本を近代国家たらしめんことを誓った。これによって退助は高知に帰り、同4月「立志社」を創立した。

10月、退助は1月に創設した愛国公党の公約どおり一大政党を組織する為に上京。太政大臣・三条実美は上京した退助に密書を送り、日清開戦となった場合「将軍」として政府に協力するよう要請している(※「三条公より板垣氏への書簡」より)。しかし、10月末、清国が賠償金を支払い、駐留している日本軍が台湾より撤退することで日清交渉が妥結した。この決着は、清国の台湾領有を認めてしまうことになり、外交的には成功したとは言えない結果となった。

明治8年(1875) 39歳

2月11日、井上馨の斡旋あって、木戸、大久保、伊藤等と共に「大阪会議」を開き、木戸と共に再び朝廷に入って参議となる。退助は、この命を受けるに先立って林有造を使として西郷隆盛に其旨を報じ、かつ西郷に参議復職を勧めた。
2月18日、大阪で「愛國社」を組織して創立集会を開き、22日、「愛國社合議書」を発表。
3月、東京へ戻る。
3月12日、参議に復職。
6月28日、讒謗律、新聞紙条例制定。
9月20日、「江華島事件」起きる。
退助の進歩的政見は、当時の他の保守的閣僚とことごとく意見が合わず、10月27日、参議を辞任。

明治10年(1877) 41歳

2月15日、西郷隆盛、ついに兵を挙げて政府の改革を企てたが成らず。退助は武力を用いず言論を武器として国民的運動を起こすことで、政治の革新を計るべきであると考えた。
6月、立志社総代・片岡健吉に国会開設の建白書を京都行在所に捧呈せしむ。

明治11年(1878) 42歳

3月、四国愛国社の再興趣旨を天下に頒布し、栗原、杉田、植木らを畿内、北陸、山陽、山陰、四国、九州に派遣。9月14日、愛国社再興大会を大阪に開く。

明治12年(1879) 43歳

3月27日、愛国社第二回大会を大阪で開く。
11月6日、愛国社第三回大会を大阪で開き、「国会開設請願」を最終的には天皇陛下に上奏できるよう画策することを決議する。

明治13年(1880) 44歳

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3月15日、愛国社第四回大会を大阪で開き、同17日、二府二十二県8万7千余人の代表114名を、大阪・太融寺に集め、「愛国社」を改めて「国会期成同盟会」とし、片岡健吉、河野広中を代表として「国会開設請願書」を作成。片岡、河野を総代として上京し提出。しかし政府はこれを省みず、国民の反発益々甚しくなった。11月10日、国会期成同盟会・第2回大会を東京に開きて気勢を挙げ、更に退助は、全国に遊説することを決めた。

明治14年(1881) 45歳

8月10日、大阪戎座で政談演説を行う。
9月、退助は東北を遊説。国を愛する同志らは、また各地に演説会を開いて国会開設を要望。
10月12日、10年後を期して国会開設の大詔煥発あらせらるるに至る。退助は、「国会期成同盟会」を解散して「自由党」を結成し、推されてその総理(総裁)となる。副総理には、中島信行。常議員には、後藤象二郎、馬場辰猪、末広重恭、竹内綱。幹事に、林包明、山際七司、内藤魯一、大石正巳、林正明等がいた。

明治15年(1882) 46歳

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2月、退助は、竹内綱らと「自由党」の政見発表のため、東海道を遊説。4月6日、岐阜中教院の政談演説の後、玄関先において刺客・相原尚褧の凶刃に襲わる。時に退助は大喝して「板垣死すとも自由は死せず」と放った言葉は、世間の人々の心を揺り動かせた。愛知病院長・後藤新平が治療に当り、12日、勅使が下向して御見舞を賜う。退助の声望は、益々揚がり「自由の神」、「自由大権現」或は「民権の神」等と呼ばれるようになった。
6月29日、自由新聞を創立する。
傷癒ゆるや、同11月11日、後藤象二郎と共に欧州の情勢を視察のため洋行。

明治16年(1883) 47歳

6月、帰国したが、退助の外遊中の不在に乗じ、反対党の策謀と、政府の弾圧愈々甚しく、政界はそのために混乱あり。
8月22日、関西大懇親会を開く。

明治17年(1884) 48歳

2月12日、自由党総理に再選。
10月29日、自由党解党趣旨を公表。

明治18年(1885) 49歳

6月28日、退助夫人・鈴逝去。(三番目の正妻)
退助三男・孫三郎生まれる。(母は荒木絹子)

明治19年(1886) 50歳

7月2日、退助三男・孫三郎夭逝。

明治20年(1887) 51歳

5月9日、退助、維新の功によって、伯爵位を授けられんとす。
5月12日、高知を出発、大阪で「全国有志懇親会」に出席し、叙爵の沙汰を聞き上京。拝辞するも容れられず、三顧之礼を諭す人あって、7月15日、爵位を拝授。
8月12日、時弊上奏の「封事」を提出。(10月4日却下される)
8月13日、退助、東京を出発。
8月16日、帰高。
10月3日、後藤象二郎が、芝三縁亭に有志を招き、大同団結を呼びかけ、「丁亥倶楽部」を結成。
12月26日、従三位に叙せらる。

明治21年(1888) 52歳

馬場辰猪逝去。

明治22年(1889) 53歳

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2月11日、『大日本國憲法』が発布せられる。退助は、宿願の憲法発布が成されたことを祝し、同志たちと祝賀会を開いた。
3月6日、荒木絹子(福岡孝弟養女)と婚姻。
3月22日、大同団結運動の指導者である後藤象二郎が黒田内閣の逓信大臣として入閣。そのため大同団結運動は政社派の「大同倶楽部」と、非政社派の「大同協和会」に分裂。
4月4日、退助四男・正美生まれる。
5月7日、高知を出発し上京。
6月19日、帰高。
12月19日、退助、来阪して「旧友懇親会」を開く。

明治23年(1890) 54歳

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1月3日、愛国公党趣旨を天下に頒布する。13日、近畿を遊説。
「大同協和会」が「(再興)自由党」を結成。
3月、『愛國論』を出版。
5月5日、退助が、愛国公党を再結成。
5月14日、「愛国公党」、「(再興)自由党」、「大同倶楽部」の三派が合同して「庚寅倶楽部」を結成。
7月1日、第一回衆議院総選挙。
9月15日、「庚寅倶楽部」と旧九州同志会が「立憲自由党」を結成。さらに院内会派として「弥生倶楽部」を結成。
10月30日、「教育ニ関スル勅語」発布される。
11月25日、第一回通常議会を召集。29日、開会。

ここにおいて、いよいよ国民待望の「国会」が開設せられた。退助は、さきに「民撰議院開設」を唱えて17年。宿志漸く達し立憲政治の発足を見るに至る。ここにおいて退助は、同志を集めて「立憲自由党」を結成した。

明治24年(1891) 55歳

2月24日、土佐派の議員らが「立憲自由党」を脱党し「自由倶楽部」を結成。
2月26日、退助が「立憲自由党」を脱党する。
3月19日、「立憲自由党」が「自由党」に改組され、退助は再び推されて総理(総裁)となる。
5月11日、「大津事件」が起きる。
6月23、奥羽、北海道を遊説。
12月25日、衆議院解散。
12月27日、「自由倶楽部」が「自由党」に復帰。

明治25年(1892) 56歳

1月23日、植木枝盛逝去。
2月15日、第二回衆議院総選挙が行われる。

明治26年(1893) 57歳

4月12日、退助四女・千代子生まれる。

明治27年(1894) 58歳

8月1日、日清開戦。

明治28年(1895) 59歳

1月1日、退助五女・良子生まれる。
4月17日、日本が勝利し、日清講和条約が調印される。
4月23日、「三国干渉」あり。

明治29年(1896) 60歳

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4月15日、伊藤内閣に、内務大臣として入閣。自由党総理を辞任。
6月3日、海嘯地を視察。
8月28日、内務大臣を辞任。
9月29日、勲一等に叙せられ、旭日大綬章を授けらる。

明治30年(1897) 61歳

『立憲政体の妙用』を著す。
8月4日、後藤象二郎逝去。
10月、北海道を遊説。

明治31年(1898) 62歳

自由党と進歩党、および河野広中らの「同志倶楽部」が合併して「憲政党」を結成。
6月25日、大命が降下して、第三次伊藤内閣の総理大臣・伊藤博文が官邸に退助と大隈重信を呼び、政権委譲を伝達。同27日拝命。
6月30日、日本最初の政党内閣「隈板内閣」が組閣され、総理大臣・大隈重信、内務大臣・板垣退助。
10月24日、「共和演説事件」で、文部大臣・尾崎行雄が辞任。
10月29日、退助と旧自由党系の三閣僚が辞任。憲政党内の旧自由党派が、新たに「憲政党」を結成。
10月31日、大隈重信ら総辞職。
11月3日、大隈ら憲政党内の旧進歩党派が、新たに「憲政本党」を結成。
11月14日、退助五男・六一生まれる。

明治32年(1899) 63歳

関西、九州を遊説。
6月30日、同気倶楽部を興し、西郷従道と共にその長となる。
従二位に叙せらる。

明治33年(1900) 64歳

東京、芝紅葉館で社会問題について演説。
3月、「中央風俗改良会」を組織する。

伊藤博文が「政友会」を創立するに当り、9月13日、退助は「憲政党」を解党して党員はこれに参加することとし、同15日、「立憲政友会」が結成される。退助は後人に席を譲って政界を勇退。以後、民間において社会改良事業に盡力。

  • 最終更新:2017-05-24 20:45:21

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