板垣退助先生顕彰会設立趣意書

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自由党初代総裁・板垣退助先生顕彰会設立趣意書

 板垣退助先生逝いて五十年、御遺族並びに御親戚一同は相寄り故人をしのぶ五十年祭を営む趣と承りました。
 時あたかも明治百年を迎え、今日の民主国家の成長と日本経済の世界的繁栄の姿をみる時、地下の先生はさぞ会心の笑をたたえておられることと拝察されます。
 先生は、明治維新には土佐藩の家老として中央政界の檜舞台において王政復古の中核体となつて活躍され、みごと無血維新の大業を完遂された明治維新の元勲であり、また明治新政府発足に際しては、参議として台閣に列し、世界史上まれにみる廃藩置県、藩籍奉還、徴兵令の制定、その他の重要政策樹立の舞台に活躍され、立派な功績を残されました。
 不幸にして征韓論に敗れるや、西郷南洲翁等と共に野に下り、間もなく佐賀の乱、西南の役等起こるに当り、先生は心中深く期する処あり、これに組せず、独り、眼を欧米先進国の政治経済の趨勢に注ぎ、日本の今後進むべき途を洞察しつつその間静かに想を練り、明治十三年民選議院開設の建白書を提出するに至りました。
 政府もようやくこれに動かされ、伊藤博文公を憲法研究のため欧州に派遣する等のことあり、ついに明治二十二年二月十一日憲法発布を見るに至りました。
 これより先、先生は同志と共に愛国公党を組織し、民権伸張のため全国を遊説し、さらに続いて広く同志を糾合して自由党を結成し、自らその党首となり、進んで陣頭に立ち、全国津々浦々を遊説して席温まる暇なく、議会政治の確立と民主主義思想の育成に努力されました。
 その間、明治十五年四月六日岐阜市における政談演説会終了直後、会場出口附近において暴漢に襲われ、重傷を負つたにもかかわらず、生死の間を彷徨する苦痛に堪えて、毅然たる態度をもつて叫ばれた「板垣死すとも自由は死せず」の一言は、切々として当時の国民の肺腑を貫き、昭和の今日に至る迄一世紀に近く、庶民に語り伝えられており、今後とも永く民権運動史上に残る千古の名言たることは申すまでもありません。先生は、第一回帝国議会より国会議員として在籍し、その重きをなすこと十数年、ついに吾使命終れりとして後進にその席を譲り、常に淡々として俗世を超越して、名利を追わず、権威に屈せず、清貧に安住して、古武士の風格をもつて静かに後輩を指導されつつ余生を送られました。
 先生は、明治維新その他の勲功により従一位勲一等に叙せられ、伯爵を授けられましたが、これに先立ち、授爵の内報を受くるや、これを拝辞すること三度、ついに明治大帝より優渥なる御沙汰を拝するに至り、恐懼にたえず、謹んで拝受するに至りました。しかし先生は、さらに引続き華族一代論を強く世論に訴え続けておられました。
 大正八年七月十六日、齢八十三才の天寿を完うせられて長逝せられるに当り、襲爵拝辞の旨を遺言状に認め置かれ、御遺族の方々も、幾度かの襲爵手続きのすすめにもかかわらず、遂にこれを拝辞し、故人の遺志を完うせられたのであります。
 本年はあたかも明治百年に相当致します折柄、ここに有志相計り、板垣退助先生顕彰会
を発起し、東京都品川区北品川三丁目七番地品川神社境内にある板垣家墓地一六四㎡(約四十四坪)の周辺の土地一九九㎡(約六十坪)を買収して、墓地造成と造園を行い、その一角に、「板垣死すとも自由は死せず」と彫刻せる記念碑を建設し、御遺族、御親戚一同と共に多数有志の御参列を得て、板垣先生五十年祭の御魂祭りを、一層意義あるものとしようとするものであります。
 有志の皆様に奮って御協賛賜わらん事をお願いする次第であります。

  昭和四十三年七月二十日

東京都千代田区霞ヶ関三ノ三ノ三
                        高知県東京事務所内
                           電話(五八一)二一五三番
                        板垣退助先生顕彰会
名誉総裁   佐藤榮作
名誉副総裁  福田赳夫
名誉会長   溝淵増巳
会  長   寺尾 豊
外発起人一同

有志各位

  • 最終更新:2017-04-17 13:41:47

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